人外、異形種族愛好に対する歴史的観点からの考察

アニメや漫画界隈においては、非人間的な種族、また異形種族を好む人々が一定の勢力を確立して久しい。俗にモンスター娘と呼ばれるこのジャンルであるが、このブログ内ではケモナーとは共通点を有していはいるが、あくまでもモンスター娘愛好家とケモナーは別の趣向として扱う事とする。

人間の感じる性的趣向は、一般には同じ人間の姿をしている存在に向けられる感情である。それは、多くの創作物に登場するヒロインがヒト科生物の姿をしている事からも事実であると言えよう。

では、異形であるモンスター娘に強い執着や劣情を覚えるのは異常なのだろうか。私はそうは思わない。

ここで、モンスターという言葉の持つ本来の意味について考えたい。怪物と言われると恐ろしいイメージがあるが、モンスターと言われると、どこか可愛らしさを想起させる。同じ意味ではあるが、この二つの間には大きな差が存在する。モンスターの語源とは、ラテン語の「monstrum」に由来している。その意味は「正体は分からないが、存在を感じられるもの」と言われる。また、「思い出させる、気付かせる、警告する、忠告する」という意味も持っているらしい。

では、人類の歴史の中でモンスターという存在はどのような立ち位置を持ち、そしてモンスター娘へと至ったのであろうか。

古来より、人々にとって最も身近なモンスターは障碍者であった。(もちろん、差別的な意図での発言ではない)

自分達と同じ種族でありながら姿形の異なる彼等は、人々から強い関心を受けた。しかし、その関心とは嫌悪や忌避ではない。むしろ、古代世界では彼等を神聖視する文化が多かったようだ。代表的なのはエジプト文明インド神話、南米のインカ文明である。これらの世界には人間と動物が融合した姿の神が多く存在しており、異形の存在が神聖視されていた一端であると考えられる。

この価値観が大きく変化したのが、キリスト教の勢力拡大である。神は人間を完璧な形に創造したと言うのに、異形として生まれるのはおかしい、悪魔と契約したに違いない。このように考えられたのだ。このキリスト教的考えが後の魔女裁判へと繋がり、更に見世物小屋を題材とした『ノートル=ダム・ド・パリ』や『エレファント・マン』のような作品を産み出した。この時点で、既にモンスターは神や悪魔といった超常的存在から、人間を対象とした概念へ変化した事が分かる。

それから更に月日が経ち、人類全体の啓蒙が高まった事で障碍者をモンスターと呼ぶような事は無くなった。そうして、モンスターは現代の私達の思うイメージを形作ったのだ。

ここで、ようやくモンスター娘の持つ特異な魅力について語る事が出来る。

スライムやラミア、ローレライにアラクネに蟲娘に植物に機械娘。非常に多くの種類が存在するが、それらに共通するのは一目で人外と判断出来る、この点ではないかと考える。現実には決して存在しないであろう、別次元の、超常的、超自然的な存在。それは、古代の人々が異形に対して抱いていた神聖視と似ているのではないか。

決して拭い切れない不気味さ、正体不明に対する恐怖。それは同時に、私達を引き付けて止まない神秘である。私達は、異形である彼女達を通してこの世界の外側、超常的存在や世界と繋がりを持とうとしていると言えないだろうか。

いわば、モンスター娘を愛する事とは神秘を探求する人類の原始的欲求の発露であり、世界の真理へのアプローチの一つであり、モンスター娘とは性癖のルネサンスと言えよう。